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作:じんべい、籐太 / イラスト:浮月たく |
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―1― |
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武家屋敷のような木造平屋の豪邸。その庭園。
私を呼び出した男は『君のアヤカシと話してみたい』と言った。
数年前から、少しずつ私のアヤカシに特異な変化が現れた。
それで興味を持たれたんだろう。
「これが夏原くんのアヤカシかい?」
オールバックにだて眼鏡をかけた男が、興味深そうに目を輝かせる。
本名はなんというのか、私は知らない。ただ男は――“彼”と呼ばれていた。
「そうよ。ほら、自己紹介して」
「は、はい! わ、私がマスターのアヤカシで、能力は化けることです」
命令すると、少女のような姿をしたアヤカシ“化け猫”がおどおどと答えた。
この外見だけでも他のアヤカシとは、大きく異なっている。
一見しただけでは、丈が短くて古臭い着物を着た人間の女の子にしか見えない。
ただ、頭の上に猫の耳がひっついているのと、全身に円形のおかしな模様がついてる事だけが非人間的だった。
──もちろん、特異なのは見た目のことではない。
「ほお、本当に喋ることが出来るんだな。アヤカシと話をするのは初めてだ」
この子に現れた、特異な能力――。
それは大岩を砕く怪力や、風を切る俊敏さと言った類のものではない。
言葉を話せること。そして、自我を持っていること。
人間なら当たり前のことだが、アヤカシとしては特異中の特異だった。
「いろいろ質問したいことがあるんだが。いいかな?」
「いいわよ。無駄だと思うけど……」
過大な期待をされても困るので一応、忠告しておく。
だって、本当に無駄だから。
「アヤカシについてはわからないことも多い。君達はどこから来て、何を目的にしているんだい?」
「え、えっと……よくわかりません」
落ち着きなく猫耳を揺らし、視線をさまよわせながら、おどおどと質問に答える。
我がアヤカシながら、なんて挙動不審な態度だろう。
「そうか。ではアヤカシとはなんだ? 君がどう考えているかでもかまわない。答えて欲しい」
「そ、そんなこと言われても、困るのです」
「では、なぜ他のアヤカシと違い、君だけが話せる? 君には特別な意味があると思うんだが」
「と、特別ですか!? そ、そんなこと言われると、あの……えへへ」
特別と言われ、アヤカシのくせに誇らしげに頬を染めた。
私は思わず溜息をつく。これが私のアヤカシか……
「あなた、本当に何も知らないのね」
「あうっ! す、すみません……」
冷たく言い放つと、アヤカシはしょんぼりと肩を落とした。
それを見た“彼”が思わず苦笑する。
流石にここまで無知だとは思わなかったのか、多少の落胆も見て取れた。
「あの、すみません! ほんとにすみません!」
「いや、気にすることはない。人間だって自分が何処から来て何処へ向かうのか、わかる者は少ないからね。
そのことは、君の宿主だってよくわかってるよ。ねえ、織江くん?」
わざわざ回りくどい言い方をするのは、この男の悪い癖だ。
私はいら立ち混じりのため息を吐く。
「どんなときでも約束は守ってほしいものね。私を名前で呼ばないでって言ってるでしょ」
「そうだったね。失礼、夏原くん」
確かに、私がこの子を責める資格はない。
私ほど自分が何者なのか、わかっていない人間はいないから。
――夏原織江という名前も、本当の名前ではない。
だから下の名前で呼ばれるのは、気に食わなかった。
「え、え? マスターの名前?」
私のフルネームは初めて知ったアヤカシが、きょろきょろと落ち着きなく視線を巡らせている。
いろいろ面倒くさいから、この子にはマスターって呼ばせてたのに。
全く、余計なことをしてくれた。
「私もあなたみたいに名前を捨てようかしら?」
嫌味を込めて、“彼”に言い放つ。
もっとも、そんなこと簡単にできるのなら苦労はしないんだけど。
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―2― |
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家に帰るなり、アヤカシの少女はしゅんとして言った。
「ごめんなさい、マスター。今日もお役に立てませんでした……」
「あら、そんなことまだ気にしてたの?」
少女は目に涙まで浮かべている。飽きれた子だ。
時々、この子がアヤカシだということを忘れそうになる。
宿主の体を蝕む寄生虫。
それがアヤカシだというのに。
私がアヤカシを嫌いになれないのは、きっとこの子がいるせいだ。
「仕方ないじゃない、私のアヤカシなんだから。何もわからなくても、仕方ないの……」
ふと、昔を思い出して、翳りのある顔を見せてしまう。
笑みを浮かべてごまかすが、おそらく失敗してるだろう。
「うぅ、マスター、ごめんなさい……」
やはり笑えていなかったようだ。不安にさせてしまった。
仕方なく、そっと抱きしめ、やさしく頭を撫でてやる。
「気にしてないから、泣くのはやめなさい」
「ううっ、すびばぜん……」
アヤカシは、宿主を移す鏡でもあるという。
私の不安定な心が、この子に映ってるのだろう。
やはり、取り戻さなくてはいけない。
私の、本当の名前を──。
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― 3― |
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しばらくしたある日。
ひさしぶりに“彼”の屋敷へ呼び出された。
「新しいメンバーが入ることになった。君には、しばらく彼女と組んでもらいたい」
「私に新人研修をやれってこと?」
正直、気乗りのしない命令だった。
アヤカシ使いにはおかしな連中が多い。
それに私は一人が好きだ。
この子もいるし、そのほうがずっと気楽だから。
「君にとっても彼女と組むのは有益なことだと思うよ」
「どういう意味?」
相変わらず、もったいぶった言い方をする男だ。
「彼女の名前は牧原和泉。サトリ使いだ」
「へえ、ついにみつけたってわけね」
理由は詳しく知らないが、“彼”は以前からサトリ使いを探していた。
そのサトリ使いと組ませるというのは信頼されてる証拠みたいなものだ。
だけど、私に有益とはどういうことだろう?
「サトリの能力は、人の意識や記憶を覗くことだ。ひょっとすると失われた記憶を取り戻せるかもしれない」
「それ、本当なの?」
思わず、身を乗り出していた。
「確実ではないが、可能性はある。牧原くんは能力の一部を隠しているからね」
「……その能力を調べて欲しいってこと?」
「流石に察しがいい」
アヤカシ使いは簡単に能力を見せたがらないのが普通だ。
あっさり力のすべてを晒すのは、お調子者か、馬鹿だけだろう。
“彼”もそのことは熟知している。
だから、わざわざ探るような無粋な真似はしない。
でもサトリは別らしい。
「どうかな? うまくいけば君の“失われた名前”を取り戻せる」
「ギブ・アンド・テイクってわけか……」
サトリ使いの子には悪いけど、私の答えは決まっていた。
失われた名前を取り戻す。
私にはアヤカシの戦いなんて関係ない。
いつかこういう日が来ると期待していたから、ここにいる。
「いいわよ。悪い話じゃなさそうだし、やるわ」
「ありがとう。君ならそう言ってくれると思っていたよ」
“彼”が浮かべた笑みは、どことなく悪者っぽかった。
だけど、そういうところは案外、嫌いじゃない。
気に食わないところも多いけど、私はこの男を嫌ってはいなかった。
自分は善人ですって顔した人間のほうが、はるかに醜いから。
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― 4― |
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「あ、あの、マスター?」
“彼”との会見の後。
退室して廊下を歩いているときだった。
いつの間に出てきたのか、私のアヤカシが背後に立っていた。
この子は、こういったことが度々ある。
宿主の意思に関係なく発現するアヤカシなんて、この子だけなんじゃないだろうか。
「こら、勝手に出てきちゃ駄目でしょ」
「す、すみません……」
「まあいいわ。で、どうしたの?」
「マスターの失った名前って、なんなんですか?」
もじもじと指を弄りながら、ミルクを待つ子猫のような視線を向けてくる。
前にも名前のことで揉めたから、気になるんだろう。
……まあ、この子になら話してもいいか。
「仕方ないわね」
私は少しだけ昔話をすることにした――。
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― 5― |
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――幼い頃、私は事故に遭ったらしい。
全身あちこちに負った打撲と骨折。
血だらけの状態で山中に発見されたと聞いている。
運良く治療が間に合い、一命は取り留めた。
だけど、目が覚めたとき私は何一つ覚えていなかった。
記憶を失っていたのだ。
家族、学校、自分の名前さえも、思い出すことができない。
それでもどこかに両親がいるはずだと探した。
けれど、名乗りをあげる者はなく、結局、施設に入れられた。
数年後、私を養子にしたいという夫婦が現れる。
二人は経済的に充分な余裕がない――つまり、貧乏だった。
そのため、施設の先生は私を養子に出すことを渋ったらしい。
だけど夫婦の熱意に根負けして結局、里親に出された。
新しい両親は、新しい名前を私につけた。
夏原織江――それは、二人の死んだ娘の名前だった。
私を引き取ったのも、身代わりがほしかっただけ。
本当の織江の代用品として引き取られたお人形に過ぎない。
それが私。
おまけに二人はよく「お金がない、お金がない」と口にした。
もともと経済的余裕がなかったんだから、当たり前だ。
その度、私なんか引き取らなければよかったのに、と思った。
もらわれっ子がわがままなんて言えない。
私はいろんなことを我慢して育った。
そんな私にとって、唯一の心のよりどころ。
それは、失った記憶をときどき夢に見ることだ。
本当の両親が、私を本当の名前で呼んでくれる夢。
ただし、両親の顔は見えない。
どんな名前で呼ばれているのかもわからない。
けれど、とても幸せな夢。
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― 6― |
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「だから……本当の名前を思い出せれば、幸せになれる」
死んで不幸になった女の名前なんて、私の名前じゃない。
幸せになるために本当の名前を取り戻したかった。
それが私の望みであり、願いだ。
話し終えた後、アヤカシの少女を見ると、何故か両手を前に出したまま固まっていた。
いきなり重い話をしたので、戸惑ったのかもしれない。
あまり気にしないように、声をかけようとした時だった。
「まっ、マズダァーッ!」
「きゃあっ!」
いきなりガバリと抱きつかれて、バランスを崩しそうになる。
「え? ちょっと、泣いてるの?」
「がわいぞうでずぅ〜っ!」
この子は、大粒の涙をぼろぼろこぼしながら、泣いていた。
相変わらずアヤカシらしくない子だ。
でも、そんな存在に救われてきたのも事実だった。
「ぐす……マスターの名前、見つかるといいですね」
「ありがとう。そうだ、うまく名前を取り戻せたら、あなたにも名前をつけてあげるわ」
「ええっ、本当ですかっ!?」
「本当よ。前から思ってたけど、あなたにも名前がないと不便でしょ? 素敵な名前をつけてあげるわ」
「あ、ありがとうございます! 私、うれしいです!」
私の胸に顔を埋めるようにして、さらに強く抱きついてくる。
まったくこれくらいのことでこんなに喜んで、子供なんだから。
だけどおかげで私まで、少し暖かい気持ちになれた。
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― 7― |
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翌日、さっそく牧原和泉と会う機会を得た。
自己紹介もそこそこに、私は単刀直入に申し出る。
「あなたの力で、私の失われた記憶を取り戻して欲しいんだけど、できる?」
どうせ相手はサトリ使い。
言わなくても、こちらの考えは筒抜けになる。
ならば先に話を持ち出したほうが信頼を得られるだろう。
「すみません。記憶を取り戻すなんて試したことないので、うまく出来るかどうかわかりません」
和泉が少し困ったように首を傾げた。
すると綺麗に切りそろえた髪が揺れる。
でも和泉は視線をそらさなかった。
力を隠すための演技だろうか? だとすれば相当なものだ。
「パートナーとして、和泉さんの力を見ておきたいんだけど……」
少し意地悪な言い方をしてみた。
和泉はうつむき、しばらく考えるようなそぶりを見せる。
「夏原さんの過去を……第三者として、覗くことならできますが」
つまり、私の過去を見せることになるわけか。
初めて会った相手に記憶を覗かせるというのは、さすがに怖い。
でも、せっかく巡ってきたチャンス。背に腹は変えられない。
「オッケー、それでいいわ。私は本当の名前を知りたいだけだから」
「わかりました。それでは楽にしてください」
和泉が差し出した両手を広げる。
すると目の前に蕾型のアヤカシが現れた。
これがサトリ。
サトリは蕾の形から開花するように羽を広げると、電子音を発しながら私の頭上を回りだした。
ようやくだ。
ようやくこれで……
幸せになれるかもしれない……
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― 8― |
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三十分ほど経っただろうか。
和泉がサトリの動きを止めると、閉じていた瞼を静かに開いた。
「どうだった?」
焦って聞く私に、和泉はゆっくり首を横に振った。
「記憶が古過ぎて、すみません」
「そっか……」
期待していただけに、かなり落ち込む。
理由もなく和泉が嘘をついているのでは、と疑いたくなった。
だけど、このサトリ使いの沈んだ顔を見れば、問い詰めても無駄に終わると思えた。
それにサトリを通じて、彼女の純粋さが流れてきたせいもある。
おかげで記憶を読まれる間もずっと心地よい感じがしていた。
気持ち悪いと想像していただけに、意外だった。
「マスター……」
アヤカシの少女が、後ろからにゅっと顔を出す。
和泉もさすがに驚いて、目をぱちくりさせた。
“化け猫”のことは聞いているはずだけど、見るのは初めてなんだろう。
「また勝手に出てきて、駄目って言ったでしょ」
「で、でも……」
私が落ち込んでるのを見て、いてもたってもいられなくなったんだろう。
相変わらず、健気な子だ。
これ以上、心配かけないよう私は精一杯の笑みを浮かべる。
「仕方ないわ。また他のアヤカシに期待しましょう」
「私の力が、もっとマスターの役に立てるものならよかったんです……」
「あぁん、もう。あなたが落ち込んでどうするのよ? あなたの名前、約束通りつけてあげるから、元気出しなさい」
まったく手のかかるアヤカシだ。
これじゃ、落ち込んでもいられない。
「ふふ」
笑いが漏れ聞こえてきて、和泉がまだいることを思い出す。
恥ずかしいところを見られてしまった。
「可愛いアヤカシさんですね。自分のアヤカシとお友達だなんて、うらやましいな」
「いいでしょ、私の自慢の娘よ」
照れ隠しにおどけながら頭を撫でてやると、少女は嬉しそうに喉を鳴らした。
和泉が眩しそうにそれを見ている。
きっと根っから優しい子なんだろうな。
でなければ、こんな顔はできない。
「名前なんてわからなくても、夏原さんはもう充分、幸せですね」
「──え?」
突然、和泉が信じられないことを口にした。
たちまち不快な気持ちが湧き上がってくる。
「あなた……私の心を覗いたの!?」
「すみません。悪いとは思いましたが、記憶の深い部分を探るうちに、色々見えてしまったので」
和泉は最初と同じ。真っ直ぐな視線をこちらに向けたまま動かない。
なんだ? なんなのだ、この子は?
確かに心を見ていい、と許可したのは私だ。
しかし、だからといって心の中に土足で踏み込み、それを晒せなんて言ってない。
私は名前を取り戻したかっただけで、心を覗いて説教してくれって頼んだ憶えはない。
「私が幸せかどうかなんて、あなたに何がわかるっていうの!」
「すみません。だけど、私が言わなくちゃって思って。
夏原さんにそれを気づかせてくれる人は、もういないから」
「なっ──!?」
足元から千匹の虫が這い上がるような悪寒が走った。
同時に沸き起こる、強烈な眩暈と吐き気。
キモチワルイ──。
この子はどうしてそんなことを言うの!?
これ以上、心の中に踏み込ませないよう、私は激しくまくし立てる。
「分かった風に言わないで! 私は織江でいる時ずっと不幸だった! 見たのなら分かるでしょ? 織江は不幸なの、口出ししないで!」
「夏原さんは……本当に不幸でしたか? 義理のご両親は死んだ娘さんと同じくらい……いえ、それ以上にあなたを愛していました。
自分達の食費を削ってまであなたに服を買い、夜遅くまで働いて学費を稼いでくれた」
「や、やめて……」
どうして? どうしてこの子は、こんなことを話す?
私はこんな事が知りたかったんじゃない。
そんなことは……知ってた。
だからそれ以上余計なことを言わないで!
「夏原さんも、名前の由来を知るまで、織江と言う名前を気に入ってましたよね。だけど事情を知って、素直になれなくなって、
両親にも冷たく接するようになってしまった。本当は、もっと甘えたかったのに……」
「やめてって……言ってるのッ!」
「死んだ娘さんじゃなくて、夏原さん自身に愛情を注いで欲しかったんですよね。だから違う名前が欲しかった。
夢の中で本当の名前を呼んでいたのは、本当のご両親じゃない。あなたが本当に望んでいるのは――」
「いい加減にしてッ!」
乾いた音がして、和泉の頭が激しく揺れた。
気が付くと力任せに頬を叩いていた。
それでやっと、和泉が視線をそらす。
「……ごめんなさい。でも、私が言わなきゃいけないと思ったんです。夏原さんを育ててくれたご両親は、もう亡くなってるから」
「──ッ!!」
和泉が一礼してその場を去っていく。
サトリ使い……なんて嫌な子なんだ。
心が激しく乱れている。気分が悪い。
私はおろおろしているアヤカシの少女を残し、逃げるように駆け去った。
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― 9― |
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家の中に入ると安心したのか、どっと涙が溢れてきて止まらなくなった。
テーブルに突っ伏して泣いていると、あの子が周りをうろつく足音が聞こえた。
だけど私に声をかけてくる様子はない。
不器用なあの子のことだ。
きっとどう声をかけていいか、わからないに違いない。
でも今はそばにいてくれるだけでよかった。
「和泉の言いたいことは、わかってた……」
涙声になるのを堪えながら、独り言のように呟く。
背後で聞いてる気配があった。
「織江がお義父さんとお義母さんにとって、大切な名前だっていうのもわかってる。だから、どんなに嫌でもこの名前を捨てられなかった。
だけど……あんなことになるなら、もっとわがまま言えばよかった。新しい名前をつけてって言えばよかった。おとうさんたち……
こんなに早く死ぬなんて思わなかったから……ッ」
「マスター……」
また溢れてきそうになった涙を堪えていると、少女が背中からぎゅっと抱きしめてくれた。
私がこの子を慰めるとき、そうしてやるように。
「織江はね……不幸な名前なの。最初の織江は、早死にしたし、私は両親を二度も亡くした。だから私は夏原織江をやめたかった。
だから私は、新しい名前をつけて欲しかった……」
私が見ていた夢は、ただの願望だった。
本当の両親が出てくる夢なんて、実は見たことない。
いつも笑ってくれていたのは、もう一組の両親。
私を施設から引き取ってくれた、あの人達だ。
「ワガママだったのかな……私はずっと、織江でいなくちゃダメみたい。この名前は、ずっと捨てられないんだ」
私を抱きしめる腕に、ひときわ強く力がこもった。
「マスター! それなら私の名前をあげるのです!」
「え?」
振り返る。そこにあの子の潤んだ瞳があった。
「マスターが私につけようとしてくれた名前を、あげるのです!」
「あなたの……名前を?」
馬鹿な子。本当に馬鹿な子。
私なんかのために何を言ってるんだ。
あんなに喜んでいたくせに。
「でもそれじゃあ、あなたの名前がなくなっちゃうわよ」
「いいんです。その代わり、マスターの名前が欲しいのです! 私が織江になります!」
「そ、そんなの駄目よ!」
「どうしてですか?」
「織江だと……きっと不幸になる。他にもっといい名前があるわ」
楽しいこともそれなりにあったけど、この名前のせいで辛い思いをした。
素直に幸せだと言えなくなるくらいに辛かった。
「そんなことありません! “織江”はマスターの名前です。私、マスターと一緒にいると、あったかくなります。
だから織江は……いい名前なのです!」
もうこれ以上はないと思っていたのに、涙がどんどん溢れてきて、声をあげることもできなくなった。
私の代わりにオリエになってくれると言った少女。
いったんその手をほどき、今度は正面から強く、強く抱きしめる。
オリエもきつく抱き返してきて、やさしい手が私の頭を撫でた。
「オリエは幸せなアヤカシです。マスターと一緒にいられるだけで、たくさんたくさん幸せなのです。私、マスターのこと大好きです」
ありがとう――そう言いたかったのに、言葉は嗚咽になって伝わらない。
オリエの腕の中で、私はいつまでもいつまでも泣き続けた。
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― 了― |
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