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作:じんべい、籐太 / イラスト:浮月たく |
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―1― |
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月のない夜。
和風の調度で整えられた私室は、必要な物以外、置かれていない。
数十畳という広さもあって、広漠とした印象さえある。
私は今、部屋の中心で苦痛に悶えていた。
闇の中、畳の上を蛇のようにのたうちまわる。
また眠れそうにない。
腹の底から無数の蛇が湧き出し、血管の中を這いずり回るような苦痛。
これ以上、このままでいたら体が破裂してしまいそうだった。
それを抑えようと、必死に体を掻きむしる。
だが、皮膚が破れ、血が滲み、悪化するだけで、症状は改善されなかった。
それでも掻き続けなくては、狂ってしまいそうだ。
明かりの消えた部屋に、一人。
私は孤独に戦った。
「ぜっ……ぜっ……」
やっと痛みが和らいできた頃――。
ふと、部屋の外に人の気配があるのに気づいた。
よく知る女の気配。ずっと前からそこにいたようだ。
女は決して部屋に入ることも、声をかけることもしない。
それはプライドの高い私を良く知る、この女らしい優しさによるものだ。
「アキノ……もう、治まった。下がっていいぞ」
「……はい」
障子越しに浮かぶ長い髪のシルエットが、遠ざかっていく。
また一人になった。
孤独を感じるより早く、気絶するような勢いで睡魔が襲ってくる。
――私に名前はない。
周囲の者も、私をただ“彼”と呼ぶ。
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―2― |
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この苦しみの原因はわかっている。
成竜の攻撃に私のアヤカシ、オロチを貫かれたからだ。
オロチは体を穿たれ、回復不能なまでの傷をつけられた。
おかげで私は、車椅子なしでは動き回ることができない体になってしまった。
明朝、庭先に出て、日の光を浴びているとアキノがやってきた。
車椅子の私に、黙って膝掛けを被せてくる。
「何か言いたいことでもあるのか?」
「牧原和泉が死んで二ヶ月になります。竜を放っておいて、よいのですか?」
思わず自嘲しそうになるのを堪える。
牧原和泉、サトリ使い。
記憶や心を読めるという彼女の能力は情報収集に欠かせない。
共生の道を探るためにも必要不可欠だと考えていたはずだ。
なぜ、殺してしまった?
あまりにも愚かな蛮行だ。
竜の遺骸を見て以来、私は完全に自分を見失っていた。
「竜の使い手は、記憶とアヤカシを眠らせてしまった。今は不要だ」
「共生には竜の力が必要だったのではないのですか?」
確かに私はそんなことを口走っていた。
だが、それは無駄だと悟った。
すでに半分とはいえ、竜を喰らっている。
だというのに、私はこの様だ。
竜を喰らっても共生は果たせない。
力でアヤカシを抑えるのは、不可能なのかもしれない。
「今は別の可能性を探ってみたいんだ」
「ですが……」
「アキノ、共生はすべてのアヤカシ使いにとっても希望だ。これくらいで諦めたりはしない。
ただ、竜にばかりこだわっていては、本来の目的を見失う」
「共生だけではありません。力あるアヤカシが敵対の意思を示したことが問題なのです」
アキノの瞳が冷ややかな憎悪に光る。
竜の使い手に復讐したがっていると直感した。
あの戦い以来、アキノの妹は姿を消してしまい、私は毎夜苦痛にのたうつようになった。
気持ちはわかる。私とて、竜の使い手が憎い。
憎いだけではなく、肉を喰いちぎり、骨を砕き、八つ裂きにして殺してやりたい。
衝動が身のうちを焼く。
だが、それを無理矢理、抑え込む。
額にじっとりと汗が滲み、呼吸が乱れた。
「……どうか、されましたか?」
「いや、少し気分が優れない。下がってくれ」
アキノは無言で下がっていった。
私も本音は今すぐ竜を殺してやりたいのだ。
しかし、同時に理解し、危惧もしていた。
この煮えたぎるような憎悪の衝動は――オロチに喰われている証拠だ、と。
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― 3― |
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これ以上、アヤカシを使えば危険だ。
完全に喰われてしまうだろうと、本能的に悟っていた。
そのため、大胆な行動を取れなくなっていたのは事実だ。
夜毎の苦しみに、ひたすら耐え続ける日々。
朝を迎えるたびに精神が磨耗していくのを感じていた。
そうして、いたずらに半年が経過した、ある日。
屋敷の中にあるアキノの私室を訪ねた。
アキノは一人、クレヨンで描かれた落書きのような絵に見入っていた。
「何をしている、アキノ?」
ようやく私に気づき、アキノは慌てて絵を引出しの中に隠してしまう。
「いえ……何か?」
取り繕ったような無表情。
それで何を見ていたのか、だいたい察しがついた。
「エイムがいなくなって半年以上になるな」
「……八ヶ月と四日です」
やはり、エイムのことを考えていたらしい。
行方知れずとなった夜明アキノの妹、夜明エイム。
絵はエイムが子供の頃に描いたものだろう。
大切に残しているくせに、隠しているのがアキノらしい。
「エイムが心配か?」
「いいえ」
アキノは即答した。
「エイムは必ず戻ります」
妹を信じている、か。
だが心配していないわけではないはずだ。
「探しに行ってもいいんだぞ」
「その必要はありません」
アキノが目を伏せる。
滅多に表情を動かさないアキノにしては珍しい。
嘘をついている。
心配事は別にある、ということだ。
「今、私のそばを離れるのは不安か?」
「それは……」
毎夜、苦しむ私を世話するでもなく、離れるでもなく、見守ってきたのがアキノだ。
エイムを探しに行きたくても、私のそばを離れるわけにはいかないと考えているのだろう。
そういう繊細さは、ときに嬉しく、ときに煩わしい。
「私はそんなに無能な人間か? 一人では何もできぬ愚か者か?」
「いえ、申し訳ありません。ですが、エイムを探すには手がかりがありません」
ひれ伏す姿を見て、苛立ちを憶えた。
私が命じれば、アキノはいつでも盲目的に従う。
エイムは、機械的に従っていた。
あの無感情な少女が、なぜ帰ってこないのかわからない。
だが、現実に夜明エイムはここにいないのだ。
「エイムが帰ってこないのは、私のせいかもしれないな」
私が喰われていると気づいたから、裏切った。
らしくもなく自虐的な考えが頭をよぎる。
「エイムが裏切ったとお考えですか?」
「だとしたら、お前はどうする」
「そのときは私が、夜明エイムを討つでしょう」
力強く断言する言葉に、私は不安を覚える。
アキノは自分のした“誓い”を覚えているのだろうか。
お前の役目は妹を討つことではない。
お前が討つべき相手は、エイムよりもさらに身近な場所にいる。
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― 4― |
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竜との戦いから一年が経過した頃。
「アヤカシ使いの中に、おかしな動きをする者達がいるようです」
アキノが重々しい口調で告げる。
どうやら、裏切り者が現れたらしい。
私に取って代わろうというのだ。
「前川からも報告があった。噂が原因らしいな?」
「……はい、そのようです」
私が行動を起こさなくなって、一年。
竜との戦いで負傷し“彼”は弱っている。
だから行動を起こしたくても、起こせない。
それが噂の内容だ。
ほとんど事実なのだから侮れない。
今すぐ、竜に復讐しろ――。
心の奥から声が聞こえた。
声はさらに続ける。
――そうすれば、お前の手下達も納得する。
――竜よりもオロチが強いと証明してやれ。
私は思考を振り払おうと、抗った。
しかし、この一年で私はすっかり弱っていた。
苦痛にのたうち、眠れない毎日。
何も行動を起こせず、死を待つ老人のように過ごしてきた。
現状を打破したいという欲求は、抑えがたいほどだ。
「力を見せてやらねばな。私が健在であることを証明する」
「しかし! ……それでは、お体に触ります」
一年間、私を見続けてきたアキノには、わかっている。
これ以上アヤカシを使えば、私がどうなるか。
だから最近、アキノは竜の話をしなくなっていた。
「心配するな。裏切り者を私の手で始末するだけだ」
眠っている竜を倒しても力の証明にはならない。
今、いたずらに竜を襲ったところで意味はないのだ。
合理的な判断を下したつもりである。
いや、単に喰われてるという事実を認めたくなかったのかもしれない。
――駄目だ。竜を殺せ、喰い殺せ!
またも心の底から声がした。
同時に湧き上がる憎悪の感情。
それが濁流のように理性を押し流そうとする。
抵抗した。
すると、また体の中を蛇が這い始めた。
胸を抑える。猛烈な苦痛。
「やめ……ろ……」
絞り出した声はうめき。
アキノが真っ青になって、何か叫んでいる。
聞こえない。
体中の血管が蛇になったように、ぞわぞわと肉の隙間を這う。
車椅子から滑り落ちる。
それを抱きとめる女の手――私は、気を失った。
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― 5― |
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昏倒してから、三日目の夜。
あれから絶え間なく苦痛が続いている。
気絶と覚醒を何度繰り返したろう。
どうやら、オロチが私を喰い、完全に取り込もうとしているらしい。
たとえこの場を乗り切っても、もう以前の私ではなくなっているだろう。
部屋の外に、アキノの気配がある。
二人の間にある“誓い”のことを思う。
私がオロチに喰われたときは、アキノの手で命を絶ってほしい。
アキノは、それを聞き入れてくれた。
それが“誓い”だ。
もう私は限界だと思う。
だから殺してくれ、と頼もう。
思えば一年前、あのとき死んでおけばよかったのだ。
アキノを呼ぼうと手を上げたとき、外に別の気配が三つ現れた。
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― 6― |
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“誓い”を果たすこと。
アキノはそのことを考えていた。
これ以上、苦しませてなんになる?
だからといって“彼”の命を断つ覚悟は固まらない。
……“彼”を愛しているから。
だが望まれれば、そうせねばならない。
夜明アキノは苦悩していた。
縁側に立ち、漫然と庭を眺める。
毎日のように見ているはずなのに、月光を反射する池が妙に印象的だ。
そのときだった。“招かれざる客”がやってきたのは。
屋敷の塀を乗り越えて、姿を見せたのは三人。
全員、知っている顔だった。
アヤカシ使い――それも“彼”に対し、謀反を起こそうとしていた連中だ。
予想していたとはいえ、まずい。
今の“彼”は戦える状態にない。
アキノが一人で相手をせねばならないだろう。
自然、声に怜悧な殺意が宿る。
「なんの用だ?」
「や、や、屋敷の結界が、き、消えてるぞ。やっぱ“彼”が弱ってるってのは、ほ、本当らしいな」
屋敷にはこういった狼藉者が入れぬよう結界が張られている。
だが“彼”が倒れたことで、結界は効力を失っていた。
「失せろ。一歩でも前へ進めば、裏切りとみなす」
警告の声は鋭い。だが、虚しく夜の闇に溶ける。
三人の男に聞き届ける様子は皆無。
「か、“彼”を倒して、オレ……たちが、アヤカシ使い、グギギッ、し、支配者になってやるるるるぅ」
男の一人が人間とは思えない奇声を発した。
……こいつもアヤカシに喰われている。
アキノは直感し、憎悪した。
もうすぐ“彼”もこうなってしまう。
認めたくない現実を見せつけられ、激情に駆られる。
三人が一斉にアヤカシを出した。
刹那、アキノの背後で一瞬、紅蓮の炎が揺れた。
――か、に見えた。
それは深紅の矢と化した赤鬼の残像だった。
夜明アキノのアヤカシ、アテルイ。
その速さは、一条の閃光に例えられる。
相対していたにも関わらず、あまりの速さに初撃は奇襲と変わりがなかった。
瞬く間に二体のアヤカシを戦闘不能に追い込む。
だが残った一体がアテルイの脇をすり抜ける。
さっき奇声を発した男のアヤカシだ。
攻撃の目標は、屋敷そのもの。
中には、苦しみで立ち上がることもできない“彼”がいる。
アキノは即座にアテルイを反転。
敵のアヤカシに背後から爪を叩き込む。
――勝負あった、と確信する。
秒殺ではあったが、危なかった。
アキノとて相手の能力まで、完全に把握していたわけではない。
瞬殺できるかは賭けだった。
もし戦いが長引き、“彼”を人質にでも取られれば、敗北していただろう。
「ち、ちくしょう……今の“彼”についてってなんになる。
裏切ろうとしてるのは……オレ達だけじゃ、ないんだぜ……」
「裏切り者は全員始末する、それだけだ」
負け惜しみを言う男をアキノは轟然と見下ろす。
「グギゲ、キシュルルキシャヒャヒャヒャ!」
突然、人外の笑い声があがった。
先ほどから奇妙な声を上げていた、あの男だ。
男は全身を痙攣させ、海老のように跳ねながら笑い続けている。
アヤカシに喰われている者があげる独特の奇声。
アキノは過去に何度も聞いたことがある。
だが――それと比べても、常軌を逸している。
「まさか……!」
ようやく気づいたアキノが、慌てて男にとどめを刺そうとする。
だがそのときには、すでに手遅れだった。
男のアヤカシが駆ける。
使い手の腹の中へ吸い込まれるように飛び込んだ。
腹が人間とは思えないほど、膨張していく。
まるで破裂寸前の風船だ。
男はもがき苦しみながらも、なぜか笑い続けている。
そして――男の腹が破裂した。
アキノは即座に男と距離を取る。
やはり、と心の中で舌打ちした。
喰われ過ぎたアヤカシ使いの末路――。
使い手の心と体を丸ごと喰ったアヤカシの最終形態――。
破裂した腹から出現したのは、アヤカシの完全体である。
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― 7― |
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部屋の外から異様な気配が漂ってきた。
体力の限界を超え、苦痛にもがくことさえできなくなっていた私にまで、アキノ達の戦慄が伝わってくる。
この感覚には、覚えがあった。
「まさか、完全体……」
這うように布団を抜け出す。
アキノのアテルイなら、完全体が相手でも互角に戦うはずだ。
にも関わらず、大地を叩く轟音は一方的な展開を予想させた。
突如、天井が崩れ落ちる。
その向こう側から巨大化した、アヤカシの完全体が現れた。
姿は弾力のありそうな球体だ。それに無数の口がくっついている。
嫌悪を隠せないほどに、不気味で醜悪な姿。
それが部屋ごと私を喰い殺そうと、すべての顎(あぎと)を開き、突っ込んできた。
反射的にオロチを呼びそうになる。
だが、アヤカシを使えば、アヤカシに喰われる。
喰われかけている今、オロチを呼べば、取り返しのつかないことになるだろう。
……私もまた完全体への道に片足を突っ込んでいるのだ。
あんな姿になってしまうなら、死んだほうがましだ。
ためらう間に、赤い閃光が駆けた。
アテルイの爪が完全体を切り裂き、怯ませる。
「ご無事ですか?」
「ああ……」
全身あちこちに手傷を負ったアキノが、私を庇うように立つ。
完全体はかまわず、何度も突撃を繰り返してきた。
おそらく宿主の最期の意思が影響を与えてるんだろう。
赤鬼を無視し、私だけを狙ってくる。
その度にアテルイは完全体と正面からぶつかりあった。
だが徐々に傷つけられて、動きが鈍っていく。
私を庇いながら戦っているため、赤鬼は速さを生かした攻撃ができない。
自分が足を引っ張っているという事実に、悔しさと同時に怒りが湧いた。
私はもうアヤカシに喰われているのだ。
守る価値などない。
アテルイが傷つき、アキノが声を殺してうめくたび、もうやめろと命じてやりたかった。
だが、再び蛇が全身を這い始め、声をあげることもできない。
「くッ」
ついにアキノが膝を折った。
完全体が邪魔者を消そうと牙を剥く。
ずたずたに喰い殺される姿が容易に想像できた。
脳裏を掠めたのは、出会ったばかりのアキノとエイムの姿。
私のそばにいたいと言ったアキノに、好きにしろ、と答えた。
最近は思い出すこともなくなっていた過去――思い出。
柄にもなく、本当に柄にもなく。
――守りたい、と願った。
刹那、背後に漆黒の巨蛇が出現した。
ゆっくりと鎌首をもたげるのは、他ならぬオロチ。
完全体の動きが止まる。
無数の口からカチカチと歯の鳴る音が聞こえてきた。
オロチの出現に、アヤカシの完全体が怯え、震えているのだ。
獰猛な雄叫びをあげ、オロチが駆ける。
完全体は、文字通り蛇に睨まれた蛙のように動けない。
オロチは顎を裂けんばかりに開き、いや実際に裂けて、さらに大きく開く。
そのまま津波のように押し寄せ、不気味な球体をあっけなく丸呑みにした。
オロチが食事を終えるや、身のうちを焼いていた苦痛が嘘のように消えさった。
――声が、聞こえる。
『次は竜を喰え。共生のためには、竜を喰うしかない』
……それでは駄目だと、学んだはずだ。
『半分しか喰ってないから駄目なんだ。全部喰え! 全部喰えば復活する!』
無駄だ、考えろ。そもそも力で共生は──。
『竜を喰えば、圧倒的力が手に入る。オロチは無敵の存在となる』
何を言ってるんだ、共生はどうなる?
『力を手に入れれば、そんなことどうでもよくなる。さあ、私の意思を開放せよ!』
私? お前は誰だ? 私の中に別の意思が……やめてくれッ!?
――目を開くと同時、表面に現れたのは笑み。
「くくく、ふはははははは!」
私の狂笑に、膝を突いたままのアキノが目を剥く。
何を驚いているんだ、こいつは?
崩れた壁から庭へ視線を下ろせば、まだ二人のアヤカシ使いが腰を抜かしてこちらを見ていた。
「完全体を……一撃で!」
「“彼”は弱ってるんじゃなかったのか!?」
裏切り者の生き残りか。
一睨みすると、二人の男は平伏して命乞いした。
私は二人を許した。
許した代わりに――オロチで丸呑みにしてやった。
美味い、アヤカシを喰らうのは、こんなに快感だったのか!
そういえば、竜を喰ったときの耽美な陶酔はこんなものではなかった。
……喰い残しはよくない。
今度はもっと周到に準備して、徹底的に追い詰めてから、喰らってやろう。
一年もあれば、準備は整うはずだ。
今度こそ、竜を喰らう。
「はははははははは!」
こみ上げてくる笑いを止められない。
止めるつもりにもならない。
月が不吉な赤色に輝き、私を照らしていた。
「そんな……」
アキノが呆然と呟く声を背後に聞く。
なにを嘆いているのだ、この女は。
死を待つだけの停滞した日々は終わった。
もっと楽しめばいい。
これから始まる、決して明けることのない夜を──。
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― 了― |
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