|
 |
作:じんべい、籐太 / イラスト:TOMA |
|
―1― |
|
いったいどれくらいの間、そうしてきたのだろう。
街から離れ、気がつくと寂れた住宅街へ辿り着いていた。
激しい疲労と空腹。さらに目眩が酷くなる。
「私は……誰だ?」
朦朧とした意識の中、記憶の断片が順に蘇える。
広い屋敷。
畳の広間でアキノと並び、主の前に立つ“自分”。
桜舞う校門の前。
照れくさそうに笑う久坂悠の隣で同じ微笑みを浮かべる、もう一人の“自分”。
一つの身体に、相反する二つの意思が混在していた。
牧原和泉が放った最期の攻撃、その影響だった。
あれからずっと、エイムの思考と和泉の思考が、水と油のように混ざり合うことなく、一つの体に渦巻き続けている。
自分を見失った夜明エイムは帰る場所さえわからなくなり、御明市を離れ放浪していた。
「私は……誰だ……」
再び呟く。体の疲労以上に心が疲れきっていた。
そんなエイムの耳元に、幻聴のように老婆の声が響いた。
「わからないのかい?」
うるさい、向こうへ行け!
ぼやけた視界に映る影を睨みつけるものの、叫びは声にならなかった。
足からも力が抜け、塀に手をつく。
その手から金属の匂いがした。
赤い木の実のブローチを、ずっと握り締めたままだった。
これはあの竜の使い手が、牧原和泉に贈ろうとしたプレゼント。
決してエイムに贈られた物ではない。
なのに、今まで捨てることができずにいた。
エイムは自分の中から和泉を追い出したかった。
これさえなければ、苦しみから解放される。
これさえなければ、自分の中にいる和泉を追い出せる。
「これは……私の物ではないッ」
ブローチを握る手を大きく振りあげる。
そのまま地面に叩きつけようとする。だが、そこで和泉の思考が邪魔をした。
振りあげた拳がゆっくりと降ろされる。
同時に去来する安堵と怒り。
エイムの身体はぐらりと傾き、その場に倒れ伏した。
|
―2― |
|
「ただの過労ですね……では、お大事に」
まどろむ意識の中で、そんな声を聞いた気がする。
どうやら気を失っていたらしい。
見上げる天井は、見知らぬ場所だった。
古い木造の家。縁側に面した和室に寝かされていた。
エイムは体を起こそうとするが、極度の疲労でそれさえもうまくいかない。
やっと上半身を持ち上げた所で襖が開いた。
襖を開けたのは、倒れる前に声をかけた老婆。
「幸江、目が覚めたのかい」
サチエ? 一体誰のことだろうとエイムは部屋を見渡した。
部屋には夜明エイムと老婆だけだ。
その老婆はエイムを見ながら、ニコニコ笑っていた。
「お医者様がね、今夜は柔らかい物を食べさせるようにっておっしゃるのよ。お粥でいいでしょ、幸江?」
何か勘違いをされているらしい。
エイムは、はっきりと告げた。
「私は幸江ではない」
断言すると、老婆は何かに気づいたような顔をして、棚の上に置かれていた物を持ってきた。
「これ、幸江のでしょう?」
「だから私は……!?」
老婆が差し出した物を見て、言葉を飲み込んでしまう。
赤い実をかたどったブローチ。
それを見ただけで、またもエイムの中で激しい葛藤が巻き起こった。
やはり、このブローチがあるから混乱する。
「私のものではない!」
気がつくと頭を抑えながら、荒々しく声をあげていた。
それでも老婆は意に介することなく話を続けた。
「これ、大切な物なんでしょう? 倒れたときもずっと握り締めてたのよ」
「違う! 私の物ではないと言っているッ!」
声を上げる間にも、和泉の意識が大きくなるのを感じて、エイムは乱暴に腕を振るった。
その勢いに呑まれ、はからずも老婆の手からブローチが弾き飛ばされた。
金属を弾いた音が縁側から庭の方へ吸い込まれていく。
「あ……」
偶発的とはいえ、今まで捨てたくても捨てられなかったブローチを、ついに手放すことができた。
途端に和泉の意識が弱くなり、動悸と葛藤が遠のいていく。
だが代わりに、胸の奥に穴が開いたような奇妙な喪失感が湧き起こった。
「いいのかい?」
老婆が寂しげな顔で聞いてきた。
エイムは意識して無表情を作り、視線を逸らす。
これでいい。これで苦しみから解放されるはずだ。
エイムは老婆に背を向けて横になると、再び瞳を閉じた。
|
― 3― |
|
エイムとて、名も知らぬ老婆の元で長く世話になるつもりはなかった。
かといって行く宛てはなく、また体調も優れない。
そこに老婆から、居てほしいと引き止められ、歩き回れるくらいに癒えるまでは居座るつもりになっていた。
いや……実際には、もう一つ、エイムにはこの場所を離れられない理由があった。
この数日、気がつくといつも縁側から庭を見ている。
その時間が、日に日に長くなっていく。
考えるのは、自分で捨てたはずのブローチのこと。
すぐにでもブローチを探し出すべきだという自分と、一刻も早くこの場所を離れるべきだという、もう一人の自分。
新たに生まれた葛藤が、エイムに出て行くことをためらわせていた。
「ねえ幸江、そこにある孫の手、取ってくれないかい?」
「私は幸江ではない」
老婆は相変わらず、エイムのことを“幸江”だと思いこんでいる。
エイムはそれを素っ気ない態度で否定する。
それでも素直に孫の手を取りに行く辺り、彼女なりに感謝の意を表していたのかもしれない。
少しよろけながら立ち上がり、仏壇の近くにあった孫の手を取る。
ふと、飾られている遺影の一つに目が止まった。
そこに写っているのは、女性。
その姿はエイムと似ても似つかない。
だが、遺影の裏に小さく“サチエ”と書かれていた。
思わず見入ってしまったのは、それに気づいたからだ。
「……幸江?」
振り返ると、老婆が不思議そうにこちらを見ていた。
エイムは孫の手を渡すと、そのまま何も言わず布団の中へ戻った。
|
― 4― |
|
さらに数日が過ぎた深夜――。
月明かりの下、エイムが庭の中に立っている。
すでに身体は充分に癒えていた。
そろそろ出て行くべきだ。そして“彼”とアキノの元へ戻る。
自分が夜明エイムならば、そうする。
それが“自分”の証明。そう考えているはずなのに──。
「何故だ?」
自問自答。考えるよりも先に体が動いていた。
夜闇の中、薄い月の輝きだけを頼りに、捨てたはずのブローチを探している。
縁側のすぐ下に落ちたはずなのだが、なかなかみつからない。
何日間も放置する間に、どこかへ行ってしまったらしい。
もう諦めろ。それは必要ない。
そう思っていても、探すのをやめられなかった。
自らの矛盾した行動と思考にエイムは苛立つ。
だけど、どうしようもなかった。
あれがなければ自分が自分でなくなる。そんな不安が体を動かした。
だが暫くして、急に闇が濃くなる。
見上げると月は雲に隠れ、明かりを落とすことをやめていた。
わずかな光明さえも断たれ、エイムは呆然と立ちつくす。
ブローチは見つからない。
そう考えた瞬間、大きな喪失感に襲われ、動悸が激しくなる。
心が激しく乱れる。息切れがする。
苦しくて、強く閉じた瞼に浮かぶのは――男の子の顔。
少し乱暴で子供っぽいけれど、やさしく、頼りにされると人一倍張りきる、牧原和泉がずっと好きだった人。
彼のことを思うたび、胸が締め付けられ、体が熱くなる。
「悠、くん……」
気がつくと、その名前を口にしていた。
それは誰の耳にも届くことなく、夜の闇に溶けてしまうはずだった。
「その人、幸江のいい人?」
思いがけず答える声があって、エイムらしくもなく驚いてしまった。
いつの間にか、老婆が縁側に腰掛けてこちらを見ていた。
エイムは何も言えず、ただうつむく。
「出て行ってもいいのよ」
突然、老婆がそう言った。
「……後悔してるのよ。あの子、音楽家になりたいって言い出してね。外国に行くんだって言ったのよ」
エイムには老婆が何を言おうとしてるのか、わからない。
それでも言葉を遮ろうとは思わなかった。
「私は反対してね。最後は勝手にしなって追い出してしまったの。 幸江は泣きながら出て行って、事故に遭ったの……」
老婆は遺影が飾られた仏壇のほうを見ていた。
それが、ふいとエイムのほうを向いた。
だけどその視線はエイムを捕らえていない。
まるでここにはいない、とても遠くにいる人を見ているようだった。
「これ、大切な物なんでしょ?」
老婆が手のひらを広げ、持っていた物を差し出した。
それは赤い木の実をかたどったブローチ。
反射的に手を伸ばしかけて、ためらった。
「ちが……う」
「大切な人に貰ったのよね?」
大切な人、その言葉で真っ先に浮かんできたのは、“彼”でもアキノでもない。
こちらに微笑みかける、久坂悠だった。
それを意識した途端、左目から涙がこぼれた。
「後悔してたんでしょ。もう捨てたりしちゃダメよ」
「違う……私は、後悔して……ない……」
左目からこぼれる涙を止められない。
涙を流しているのは、きっと和泉の部分だ。
久坂悠を思う牧原和泉が涙している。
夜明エイムが泣いているのではない……それを証拠に右目は乾いたままだった。
「ほら」
ブローチを手渡され、エイムは思わずそれを胸に抱いた。
今度は、右目からも涙が溢れた。
ダメだ……自分の中には、確実に牧原和泉がいる。
それは動かしようがないんだと、両目から溢れる涙に悟らされた。
和泉が愛していた久坂悠という存在が、エイムの心を熱し、二人を溶け合わせた。
「大切な人がいるなら、ずっとそばにいてあげて。そうじゃなきゃ、守ってあげられないから……」
守る、という言葉。和泉の最期の意志も、悠を守ることだった。
エイムは、素直に頷いた。それと同時に一つの決意が表れる。
――御明市に戻るべきだ。
葛藤や混乱を完全に克服したわけではない。だが、ここにいても仕方がない。
自分が何者か確かめるためには、戻るしかない。
「お世話になりました」
決断すれば早い。それはエイムと和泉、二人に共通した性質だったろう。
「幸江、気をつけてね」
立ち去ろうとする背中に、老婆の声がかかった。エイムは足を止めると、迷いのない口調ではっきりと告げた。
「私は幸江さんではありません。夜明エイムです」
「……そう。そうだったわね」
老婆は少し寂しそうに笑った。
昔のエイムなら、このまま立ち去るだけだったかもしれない。だけど、今は和泉である部分も持っている。
「ですが、あなたの言葉通り、気をつけて行くことにします」
エイムにとっては、精一杯の誠意を示したつもりだった。
それが相手に充分、伝わったかはわからない。
ただ、老婆の微笑みから寂しさが薄れるのが見て取れた。
「ありがとう、エイムさん」
言葉に目礼で返し、今度こそエイムは去った。
御明市に向かう。
自身の内と外で起こる激しい戦いを予感しつつも、歩みを止めることはなかった。
|
― 了― |
|
|
|
第2回>> |